Jyosui's Ambtion
【黒田官兵衛の野望】
時は、慶長年間。
400年以上も前の出来事である。
豊臣秀吉が波乱の人生に幕を閉じ、徳川家康が江戸幕府を開いた、そんな激動の時代。
傾奇者が街に溢れた世の中で、一世を風靡したある「流行品」があった。
「桃山茶陶」
茶会で使う焼き物(茶道具)である。
当時の茶道具といえば、たった一つでさえ国が買えてしまう程、価値があった時代だ。
戦の報酬に領土でなく、手のひらに乗ってしまうような、小さな茶道具を求めた戦国武将がいた程である。
そんな桃山茶陶で天下取りの野望を夢見た「ある大物大名」がいたことを、世の中は忘れてしまっている。
そしてその真実を、この本編を読んだ誰もが目の当たりにすることだろう。
「黒田官兵衛」
言わずと知れた豊臣秀吉の軍師、黒田孝高(以下官兵衛または如水)のことである。
黒田官兵衛の功績は、天下人の軍師として名を馳せたことなど、主に武功を中心に語られることが多いが、実は彼の本当の実績はそれだけに留まらない。
当館が今、黒田官兵衛の本当の歴史を、逸話でなく器(伝来品)で証明しよう。
彼の真実の姿を、とくとご覧あれ。
【官兵衛の一生】
黒田官兵衛(1546-1604)は、室町時代後期~江戸時代初期を生きた戦国大名である。
播磨国姫路城主の長男として誕生。織田信長による中国征伐では、信長に謀反した荒木村重に一年近く幽閉されるなど苦難を経験するが、同時に羽柴(豊臣)秀吉の参謀として名声を高めていく。
1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれると、泣き拉がれる秀吉に中国大返しと天下取りを進言して大躍進。その後も、小田原征伐や九州征伐など、秀吉の天下統一事業を側近として支え続けた。1587年、その功績から、豊前国6郡12万石を恩賞で与えられ、播磨国から豊前国に移転する。
1592年から始まった朝鮮出兵では、総大将の軍監として朝鮮へ二度渡海。秀吉の死後は、関ヶ原合戦で徳川家康の東軍に属して、九州方面の西軍を次々と撃破した。戦後は、官兵衛の武功と嫡男長政の活躍とを合わせて、黒田家は筑前国52万石もの大幅加増となった。
この時の有名な逸話として「関ヶ原合戦が後1か月続いていたら、九州から中国地方に攻め込んで華々しい戦いをするつもりだった」といった書状や、家康に対する長政の対応を叱責した伝承が残っており、それらが天下を狙った野心家黒田官兵衛の通説となっている。
晩年は、所領の筑前国と上方とを行き来する隠居生活を送りながら、1604年に京都伏見でその生涯を閉じた。
なお、官兵衛はキリシタン大名としても有名だ。宣教師や渡来人と秀吉とを繋ぐパイプ役を務めるなどしており、それがプラスにも、マイナスにもなったようである。その事実は黒田藩史には残っていない。
以上が、一般的によく知られる黒田官兵衛の一生である。
【 通説を切る 】
しかし、黒田官兵衛の一生について、当時の一次資料や伝世品など、比較的信頼できる情報だけを見ていくと、一般的な通説とは少し違った「本当の官兵衛の姿」が浮かび上がってくるのだ。
手始めに慶長4年(1599年)正月に官兵衛が、伏見屋敷に掲げた「茶の湯法度書(要約)」から紹介しよう。
一つ、茶葉は静かにゆっくりと曳くこと。油断して滞らせないようにすること。
一つ、茶わん以下茶道具には、垢がつかないよう、しばしば洗っておくこと。
一つ、釜から湯を汲んだら、その分水を加えておくこと。使い捨てや飲み捨てにしてはならない。
の三ヶ条を定めた上で、これらの教えは我流でなく千利休に学んだ流儀だから、きちんと守るようにと諭している。
史上では確認できないが官兵衛の自称では、彼も利休から茶の湯の手ほどきを授かった(利休の弟子の一人)ということになろう。
その上で、官兵衛が実際に参加した当時の茶会の記録を、いくつか見ていこう。
天正13(1585)年1月 津田宗及の茶会に出席(天王寺屋会記)
天正14(1586)年(推)千利休の茶会に主客秀吉の相伴で出席(今井宗久日記)
天正18(1590)年 秀吉主催の茶会に千利休が茶頭、如水が正客で出席(同上)
天正18(1590)年 毛利輝元、小早川隆景、安国寺恵瓊、神谷宗湛らと利休の茶会に出席(宗湛日記)
※(推)は出典記載漏れや誤記の事由で日付が確定できないものを当時の事実等から推定したもの、以下同
まずはこれらの資料から、官兵衛の茶の湯に対する考え方や姿勢を見ていきたい。
というのも通説では、官兵衛は茶の湯には全く関心がないどころか、丸腰で狭い部屋に集まる茶会自体に不快感を示していたと言った、残念な逸話まで残っているからだ。
その官兵衛が茶の湯に目覚めたのは、一般論では、小田原征伐(1590年)の折に、秀吉から密談機能として茶会の有効性を諭されて以降と言われている。
ところが実際の史実で確認すると、前述の通り官兵衛は、千利休、津田宗及、今井宗久ら天下三宗匠が開いた茶会へ出席し、秀吉の茶会でも正客を務めるなど、これまでの定説とは真逆の姿が見えてくるのだ。
なのでここでは定説や通説でなく、実際の官兵衛の行動や証拠という事実に基づいて、官兵衛の茶の湯に対する実態を検証していきたい。
ちなみに、安土・桃山時代の「茶の湯」といえば、武士の代名詞とも言えるほど流行していた文化であり、礼儀作法であった。
元々は、千利休・津田宗及・今井宗久ら堺商人を筆頭に「侘茶(侘数寄)」が流行。それに目を付けた織田信長が、茶人たちの間で重宝されてきた茶道具を蒐集(名物狩り)して権威付けを行い、それらを分け与えることで戦の恩賞として利用したのである。また信長は、討伐した大名たちの頭蓋骨や、敵方から奉納された名物道具を茶会で披露することで、壊滅や服従の証を世に知らしめるための場としても活用した。
つまり、信長は、茶の湯を政治の道具としたのである。
そして、それを引き継いだ豊臣秀吉は、信長が作り上げた茶の湯文化を踏襲しながらも、更に強化したのだ。
例えば、秀吉が関白の地位を得た際の感謝の場として開催した禁中茶会では、正親町天皇を黄金の茶室に招いて茶を点てて驚かせるなど、朝廷をも茶の湯の文化で取り込んでしまうほど、茶の湯の影響は広がっていた。
つまり、当時の武士にとって茶の湯文化とは、政治や軍事と密接に関係して切り離せない、言わば儀式的役割を果たしていたのだ。
そのため官兵衛にも当然、それこそ秀吉から諭される逸話よりも以前から、重要な茶会への参加記録(上記一例)が残っていたのである。もちろん、主君秀吉の茶会にも正客で参加済みであった。
それらの事実や当時の時代背景から判断すれば、官兵衛の茶の湯に対するイメージ像が大間違いであることは、一目瞭然であろう。
利休七哲と呼ばれる武将茶人たちほど茶の湯や道具収集に没頭していた訳ではないだろうが、大名としての茶の湯の嗜みや理解は充分あったものと想定できる。
ちなみに官兵衛には、秀吉の側近(御伽衆)として、茶の湯や文芸に精通した小寺休夢という名の叔父がいた。彼は、秀吉の主宰した茶会(饗応)で、茶頭や給仕・勝手役を務めるほどの実力者である。
常識的に考えれば、官兵衛の茶の湯の手ほどきは、彼から授けられたと考えられよう。
【如水の茶の湯】
それでは次に黒田官兵衛(如水)と茶の湯との関係をより深く掘り下げて分析し、如水の茶の湯への考え方や価値観を考察してみたい。
前項では、天正年間(1573-1592)に如水が参加した茶会を見てきたが、ここでは秀吉亡き後に参加した、晩年期の如水の茶会の様子を紹介しよう。
慶長6(1601)年十月 新築の茶屋で長政の茶会に出席、相伴宗湛、黒茶碗を使用(宗湛日記)
慶長7(1602)年正月 神谷宗湛の茶会で長政と寺沢広高(志摩)と会合(宗湛日記)
慶長7(1602)年(推)古田織部の茶会に鍋島藩主鍋島勝茂と出席(鍋島勝茂書状)
慶長8(1603)年正月 母里太兵衛の御食事に出席、黒今ヤキを初使用(宗湛日記)
慶長5(1600)年、黒田如水と長男長政は、関ヶ原合戦の恩賞として筑前国52万石を拝領すると、厳戒態勢で豊前から筑前に移った(筑前御討入)。
当時の博多は、秀吉の朝鮮出兵から受けた恩恵が大きかったため、合戦で家康側(東軍)に味方した黒田家の入国に反対する町衆が多く存在していたからである。
そこで尽力したのが、博多商人「神谷宗湛」だ。
宗湛は、豊臣秀吉から特別な寵愛を受けた博多商人で、その中でも頭一つ抜けた存在であった。
日本史上最大級の大事件である本能寺の変が勃発する最中、現場から信長愛蔵の牧谿画を救い出すという、蒐集家として最もあるべき姿を行動で示した漢・・・、という話をし出すと、この特別展が宗湛編になってしまうので割愛させていただくが、宗湛は、一人だけで秀吉の茶道具の拝見を許されたり、石田三成が御膳を運んだりと、大名超えの破格の待遇が許された博多一番の大商人だった。
そんな神谷宗湛と如水とは、黒田家の筑前入り以降、慶長6(1601)年に3回、慶長7(1602)年に2回、慶長8(1603)年に3回・連歌会1回と、計9回もの茶会を行っていたことが分かっている。
更に晩年の宗湛は、病床に伏せる如水への見舞いが許されるほどの仲であった。二人の間には、御用商人と藩主という利害関係上の付き合いだけでなく、茶の湯を通じた特別な関係の深さがあったと伺えよう。
そんな如水の茶の湯仲間である宗湛らの協力もあって、結果的に黒田家の博多入国は平穏無事に行われた。
慶長年間での如水の茶会の人間関係で特筆すべきは、この神谷宗湛を筆頭に、近隣大名の唐津藩主寺沢広高、鍋島藩主鍋島勝茂、そして大名茶人古田織部との交友が確認できる点だ。これらの人物との茶会は、これまで軍事関連や主従関連を中心とした茶会に出席してきた如水にとって、少し毛色の異なるメンバーとの会合に見えるからだ。
時系列で見ていこう。まず寺沢志摩守広高であるが、彼は豊臣秀吉に仕えた尾張生まれの武将で、関ヶ原の合戦後に肥前国唐津藩主となった人物である。
朝鮮出兵では、拠点の名護屋城の普請を務め、兵糧、船継等の物資差配などの後方支援を担当して功績をあげており、特に国際外交や通商、貿易に強みを発揮した文官肌の大名だ。茶人としては数寄大名としても有名で、千利休門下で古田織部の後輩に辺り、出身地も織部と同じ尾張である。
如水は寺沢氏と何を語ったのだろうか?
当時の唐津藩と言えば、茶会で耳目を集めていた今ヤキ(最新の焼き物)の一つである唐津焼の開発と、完成した今ヤキを大都市(京・堺・大阪など)へと運び出す仕出し港として、流行の恩恵を享受していた代表格である。
もちろん、それらの流通や消費には、豪商神谷宗湛も一枚絡んでいただろう。そんな通商派の藩主寺沢広高らとの会合目的は、大流行していた焼き物の開発や流通についての情報収集、もしくは相談事ではなかっただろうか。
続く古田織部は、利休亡き後の天下一茶人として有名な戦国大名である。
豊臣秀吉のお伽衆や二代将軍徳川秀忠の茶の湯指南役を務め、伊達政宗や島津義弘、小堀遠州、佐竹義宜、小早川秀秋、本阿弥光悦らを茶の湯の弟子に持つなど、当時の大名や貴族、町人にまで多大な影響を与えた人物だ。
宗湛は、1599年に織部が使った歪んだ茶碗を「ヘウケモノ」と表現して驚きを表している。当時は、新しく焼かれた茶陶(今ヤキ)を茶会で披露することが流行していたのだ。
織部は如水とのこの茶会においても、京陶工が焼いた最新の唐津焼を披露して結果的に同席者(勝茂)を驚かせた。
なお、この茶会に同席していた勝茂とは、鍋島藩主鍋島勝茂のことである。茶会後に勝茂は、織部が使った唐津焼に関して国元の家老に手紙を出したことが分かっている。
それによると、織部が使った唐津焼が、勝茂の知らないうちに勝茂の領土内(鍋島藩内)で焼かれたものだったようで、そのことを察知した勝茂が、以後そのようなこと(勝手に唐津焼を焼かせること)を止めるように、といった指令が家老に出した手紙の中に残っていたのである。
つまり勝茂はこの茶会に出るまで、自分の国内で唐津焼の茶道具が焼かれていたことすら知らなかったのだ。
藩主さえ知らなかった「唐津焼と織部と如水との組み合わせ」が意味する真実とは、一体何なのだろうか?
この事実は、当時唐津焼の茶道具を誰が焼かせたのかを考える上で、非常に重要なポイントになる。
即ち、誰が指示をしたのかは判定できないが、勝茂の領土内で問題の唐津焼を焼いたのが京陶工(商人)であり、それを使ったのが古田織部であり、その茶会に黒田如水が同席していたということは、確実な事実なのである。
さらに焦点を当てたいのは、勝茂と如水との関係性だ。勝茂にとって如水は、西側に属していた鍋島家が関ヶ原合戦の処遇で、家康から所領安堵を約束された際の仲介役で、言わば大恩人でもあるのだ。
如水は、そんな勝茂の領土内で当時の茶人達に人気の唐津焼が密かに焼かれていたことを、宗湛などから聞いて知っていたのかもしれない。そして、その唐津焼の技術を筑前藩にも導入すべく、宗湛を通じて、使用者の天下一茶人古田織部へアクセスしたのかもしれない。
と言うのも、慶長19(1614)年に開窯する黒田家の二番目の藩窯・内ヶ磯窯では、織部様式の茶陶が多く焼かれたことが分かっているのだ。
その発端となったのが、如水が宗湛を通じて織部に筑前国の「今ヤキ」開発について相談した、この茶会であったと考えるのが妥当ではなかろうか?ともあれ如水は数寄(茶)の世界でも、当時トップクラスの茶人たちと交流していたことが分かる。
そして、これらの関係性をより詳しく分析していくと、如水の生々しい野望が浮かび上がってくるのである。
【茶陶に秘めた野望】
時は、慶長年間。
たった一つで国が買えてしまう程、一世を風靡した流行品があった。
茶の湯で使う「焼き物」である。
関ヶ原合戦を経て、戦国の乱世から時代が平和になるにつれ、戦によって領土拡大が叶わなくなった戦国大名たち。そんな大名たちが、自国の産業や経済を発展させるために目を付けたのが、当時大流行していた今ヤキ(新しい焼き物)だったのである。
当時の代表的なものは、毛利氏が焼かせた萩焼、細川氏が焼かせた上野焼、鍋島氏が焼かせた伊万里(鍋島)焼、唐津・佐賀藩を中心に焼かれた唐津焼、島津氏が焼かせた薩摩焼などが有名だが、実はそれらの焼き物には、ある共通の特徴が見られる。
その特徴は「朝鮮から渡来した渡り陶工」の技術が使われていることである。
豊臣政権晩年期に行われた朝鮮出兵は、別名「焼き物戦争」と呼ばれるほど、後の日本の焼き物に大きな影響を与えた戦だった。
秀吉は、出兵にあたって、朝鮮に渡った大名たちに「職人や陶工など利用価値の高い技術者を連行して進上せよ」という意図の朱印状を出しており、それらの意図に従った大名たちが、各地で多くの朝鮮人を連れ帰ったのである。
秀吉の死によって、それらの進上の多くは実現しなかったが、各大名たちは、自国の労働力や殖産・興業を目的として、多くの朝鮮人を引き連れて日本へ戻ってきた。その中に、近い将来「今ヤキの茶陶」を生み出すことになる朝鮮陶工らが混じっていたのだ。
そして、そのような経緯で生み出された今ヤキの中に、従来までは、唐津焼や萩焼の中に紛れ込んでしまって、世間に認知すらされていなかった伝説の焼き物が隠れていたのである。
それこそが、黒田如水が手掛けた「最後の野望」である。
近年ようやく窯跡や消費地の発掘調査がなされたことで、黒田家の焼き物に関する研究が進み始めたが、黒田官兵衛と焼き物との関連性は、まだまだ未解明な謎が多い。
ここでその謎を解明するために、如水の野望の本丸に迫っていこう。
【筑前高取焼とは?】
慶長6(1601)年10月。
関ヶ原合戦から約1年後。
藩主長政が福岡で主催した茶会で、如水は宗湛らと会合し、そこで「黒茶碗」が使われた記録が残っている。
それから約3か月後の1602年正月には、神谷宗湛が主催した茶会にて、如水は唐津藩初代藩主の寺沢広高と同席。さらにその同年(※推定)に立て続けて、件の古田織部の茶会に、鍋島勝茂と出席していた(前述)のだ。
そして、その翌年の1603年正月、家臣母里太兵衛の食事会で初めて使われたのが「黒今ヤキ」なる焼き物であった。
如水の晩年期は、穏やかな隠居生活を過ごしたというのが定説である。しかし、これまで見てきた一連の茶会や、そこで使われた焼き物、そして近年筑前の窯跡から発掘された出土品から見られる共通点を繋いでいくと、穏やかな隠居生活とは程遠い、野心に満ち溢れた如水の姿が判明するのだ。
そしてそれこそ、黒田家の藩窯「筑前高取焼」最大の謎であり、如水の「夢」の破片だったのである。
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「筑前高取焼」とは、その名の通り、筑前藩(現福岡県直方市)で焼かれた焼き物のことだ。
伝承によるとその起源は、文禄・慶弔の役の際に黒田如水と長政によって連行された陶工八山(高取八蔵)が開窯し、黒田家の御用窯として、織部好みや遠州好みや金森宗和好みの茶陶を焼いたと伝わっている。
この由来を、黒田家側の記述で確認してみると、貝原益軒が宝永6(1709)年に記した「筑前国続風土記」の中で『鷹取焼は朝鮮軍の時、長政公の手にも、朝鮮人あまたとらわれ来りし中に、瓷器を製する上手あり。名を改て八蔵と云。・・・。』との表記で確認できる。
また高取家文書(高取歴代記録)の中でも『文禄元年、秀吉公朝鮮御征代(伐)乃時為御先手 長政公御渡海被遊候節、御陣所乃近辺に井土と云村里有 此所に居住して瓷物を製し産業とせし八山と号せし者有 如水公 長政公に奉謁両君も其良工成事を知しめされ御供仕日本江可来旨被・・・。』の表記で確認できる。
言わば、連れてきた側と連れてこられた側の証言が一致していることが分かる。このことから、この伝承は概ね正しいものと判断できよう。つまり、筑前高取焼も朝鮮出兵の際に連れ帰った陶工らの技術で開発された焼き物の一つだったのである。
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なお筑前高取焼は、時代の変遷や窯の種類(様式の変化)によって、以下に分類できる。
【 古高取焼時代 】
・永満寺宅間窯:慶長7(1602)年 ※推 ~慶長19(1614)年
・内ヶ磯窯:慶長19(1614)年~寛永6(1629)年
・山田窯:元和9(1623)年~寛永7(1630)年
【 遠州高取焼時代(参考)】
・白旗山窯:寛永7(1630)年~寛文5(1665)年
区分けの特徴を紹介すると、李朝初期の窯と共通の特徴を持つ最初期の「永満寺宅間窯」、江戸初期最大規模の連房式登窯で当時流行の織部様式の茶陶や食器を多く焼いた「内ヶ磯窯」、長政死後に八山親子が朝鮮への帰国を願い出て蟄居させられた山田村で日常容器を焼いた「山田窯」の三窯時代を「古高取焼」と呼び、それ以後の白旗山窯以降を高取(遠州高取)焼と呼び分けている。
遠州高取焼は、いわゆる「きれい寂び」と呼ばれる端正で瀟洒な様式で、大名茶人の小堀遠州好みの様式を取り入れた作風である。それ以前の古高取焼(特に内ヶ磯窯)の作風は、織部好みの様式が取り入れられている。
これらのことから高取焼の様式(作風)は、当時の茶会の最新の流行がいち早く反映されていたことが伺える。
ちなみに如水が病に倒れて人生に幕を閉じたのは、慶長9(1604)年3月のことである。そこから逆算すると、如水の存命中に茶陶を焼いた可能性のある窯は「永満寺宅間窯」ということになる。
「永満寺宅間窯」とは、一体どんな窯なのだろうか?
いよいよその謎を暴いてみよう。
【幻の永満寺宅間窯】
「永満寺宅間窯」は、鷹取城南山麓に位置する筑前高取焼最古の窯と言われている。
窯跡の発掘調査では、李朝の様式が取り入れられた窯構造であり、さらに岸岳窯唐津焼時代の藁灰釉技術が伝播している特徴が分かっている。これらは朝鮮陶工らによる技術の一つだろう。
永満寺宅間窯の窯跡(遺跡)から出土した陶片には、皿・鉢・甕・壺・片口・徳利・すり鉢等の生活容器が大半で、まれに水指や茶碗などの茶陶が含まれていた、とのことだ。
これらの陶片に茶陶が含まれているということは、永満寺宅間窯時代には、すでに筑前藩では茶陶が生産されていたことが分かる。
ちなみに、峠を一つ越えたすぐ先には、小倉藩主細川氏が手掛けた「上野焼」の藩窯が設けられていた。その付近で、焼き物を焼くために良質な土が取れたのであろう。
余談だが、当時黒田家と細川家の仲は非常に悪かった。
関ヶ原合戦後の領地転封の際に、細川氏の旧領を治めていた黒田長政が年貢を持ち逃げしてしまったためである。
通常は新しく入国する大名のために年貢を徴収せずに残しておくのが通例なのだが、これを長政が持ち逃げしてしまい、結局家康が介入するほどの大喧嘩となってしまったのだ。
細川家の当主細川忠興(三斎)は、利休七哲に数えられるほどの大名茶人である。茶道具の蒐集にも余念がなかったことから、窯場でも黒田家と競い合うように茶陶を焼いていたのではないかと想像できる。
そんな細川氏が手掛けた上野焼については、別の機会で紹介したいと思う。
兎にも角にも、永満寺宅間窯では、茶陶は僅かな数の伝世茶入と、それらの出土品以外にほどんど作品が見つかっていないことから、試作段階として製作された可能性はあっても、本格的な茶陶生産はされていなかったという見解が大勢を占めている。
しかし、しかし、その通説こそ疑っていきたい。
なぜならこれまで述べてきた通り、永満寺宅間窯の時代こそ、如水の生きた時代の藩窯だからだ。
それに当時の如水は、これまで見てきた通り、天下一茶人の古田織部、そして天下一商人の神谷宗湛、当時大流行していた唐津焼の産地藩主寺沢氏や鍋島氏などと集中的に茶会を開催していたのである。
更に如水の生きた慶長初期の茶会記は、新しく焼かれた「今ヤキ」なる焼き物がどんどん出現し始めた時期でもあるのだ。
そして極め付けは、筑前藩には同時期頃に作られた永満寺宅間窯という窯が確かに存在していた。
これらの「事実」を総合的に鑑みれば、どう考えても永満寺宅間窯を作った理由は、試作品や日常生活の容器を焼くためではなく、京都や堺や大阪などの大消費地で支持を得るために、最先端の茶陶を開発するためだと考えた方が自然であろう。
そもそも当時の茶陶や焼き物に、焼けムラや出来損ないや歪みが発生するのは当然である。なぜならば、朝鮮出兵と関ヶ原合戦を経て世の中が落ち着いたばかりであり、また茶陶の生産が本格化したのもこの頃からだろうと思われるからだ。
そのため、出来上がりが後世に比べて稚拙に見えてしまうのは仕方のないことなのである。なので、作風の単純さや陶工の腕の未熟さをもって、試作品しか作っていなかったと考えるのは早計であり、また安易な結論と言わざるを得ない。
今回の当館の発見をもって、もう一度行政や地元の自治体が立ち上がって再調査を実施してもいい程、宝の持ち腐れをしてしまっていると思っている。
ちなみに、永満寺宅間窯で焼かれた器の焼け肌や姿形は、飴釉(褐釉)、藁灰釉(白濁釉)、土灰釉(木灰釉)を中心に複数の釉薬が使われているのが特徴だ。それらが焼成時の火炎の影響で、海鼠の体表のように青く呈色したことから「青海鼠」と呼ばれたそうである。また様式や作風、制作技術は、瀬戸焼を手本にした様が伺えるとのことだ(筑前高取焼の研究より)。
この瀬戸風の意匠性の理由として考えられるのは、先の織部の茶会で使われた唐津焼の茶陶を作った方法と同じく、京都などの大消費地の焼き物陶工ら(三条之今やき候者共)が永満寺宅間窯に出向いて茶陶を作ったのではないかと言うことである。
そして、もしそうならば、大名茶人や大商人らと如水が茶会を重ねていた「意味」がはっきりしてくるのだ。
そう、晩年の如水は、当時大流行していた「今ヤキ」で、まさに数寄の天下を取ろうをしていたのである。
そのために当時の茶の湯界と、商人界と、陶工界からオールスター級の大物たちを招集して、永満寺宅間窯で茶陶生産に注力を注いだのだ。
その結果生み出されたのが、当時の技術や嗜好や野望を全て組み合わせた伝説の名品「筑前高取焼」なのである。
これが黒田如水の野望と、幻の永満寺宅間窯の真相であろう。
参考画像背景引用「九州歴史資料館 研究論集31 2006(筑前国髙取焼の様式変化について/P56-57/副島邦弘)」
【如水の灯火を探せ】
慶長時代の一時記録や史実を中心に、黒田如水の晩年の生き様を考察してきたが、永満寺宅間窯の焼き物の中には、如水が魂を賭けて生み出した最先端の茶陶が含まれている可能性が明らかとなってきた。
そう、如水の野望は、茶道具に姿を変えて現代まで残っているのだ。
ならば、後はその証拠である「時代の欠片」を探し出せばいい。
このまま如水の灯火を、時代の風化のせいにして消し去ってしまっては、勿体なさ過ぎるのだ。
即時に、館長から全職員に蒐集命令が下ったのは言うまでもない。
ここで少しテーマから話は逸れるが、品物を探す時のコツを簡単に紹介しておこう。
ポイントは、兎にも角にも的を広げ続けて、根気よく待ち続けることである。
焦れば焦るほど、贋物やニセモノと出会う確率を自ら高めて自爆してしまうからだ。それに古美術などの一点物は、欲しくても売り手が手放さなければ市場にすら出てこないので、買いたいタイミングで買えることはまずないと言って差し支えない。
だからこそ、普段から図録や書籍を読んで知識を蓄積し、市場にこぼれ出てきたチャンスを決して逃さないようにしておくのが最善策なのである。
またそのために普段から伝世品を見て、できれば手に取って、触って、その感触や質感などの情報を、五感を全て使って脳裏に焼き付けておくのだ。
そうしていると、不思議なことに「これだけは絶対に欲しい」と強く思っている品物ほど、思いがけないタイミングで市場にこぼれ出てくるのである。
例え、それがどれだけ名品であったとしても、ましてや、さほど信用度の高くない青空市のような場所であったとしても、出る時は運命かのように、いとも簡単に出会えてしまう。
それが、古美術の面白いところだ。
その体験を一度経験してしまったら、二度と辞められない快感を味わえることだろう。
さて、古美術品収集の前置きはここまでにして、話の本題に戻っていこう。
シビアな話をすれば、永満寺宅間窯の作品で、且つ現代まで伝来している伝世品の茶陶の数は、片手で数えられるほど少ないだろう。
そんな貴重な品物を、さらに言えば存在するかどうかも分からないような伝説的なモノを、どうすれば探し出せるのだろうか?
その答えこそ、先人たちが残した記録に残されている。
そう、前でも述べたが、過去の「図録」こそが宝の地図になるのだ。
これまでに行われた美術展や展覧会の図録や、焼き物の研究論文の図説や、発掘調査資料や出土品の図録などなど・・・。心当たりのあるものは全て洗いざらい探って、如水の痕跡を隈なく探り出していくのだ。
無情にも、3か月、6か月が過ぎ、気付けば一年が経過しようとしている頃だった・・・。
ある図録の中から、衝撃的な茶陶の画像が、この目に飛び込んできたのである。
「間違いない!」
即座に脳裏に電気が走り、欲望の炎がメラメラと燃え出す。
そんな衝動を脊髄が本能的に感じた。
この感覚こそが、時代を超えて如水の息吹と歴史の真実とが繋がった瞬間である。
なぜなら、少なくとも図録に載ってさえいれば、この世に「実物」が存在することが確定するからだ。
後は、それを手元に収めるだけで任務完了である。
古美術の世界では、それができないから難しいのだと思う方も多いかもしれないが、実はこの段階まで来てしまえば、手に入れるのはさほど難しくないのが実情である。
なぜならば、ここから先は、つまらない小細工など一切不要。
相手がお譲り下さるに足る充分な価値を一発提示して、納得して譲ってもらえばいいだけだからだ。
その品物を、世界で最も高く評価しているのは、自分なのである。
その自分の眼が正しいと信じるならば、古美術品の価格などあってないようなもの。例え、焼き物一つで数億円を提示されたとしても、払うものを払ってしまえば手元にやって来るのが、古美術取引の生々しい世界なのだ。
つまり、パワープレイ次第で振り子は動かせる。
ここまで話せば、数か月後には館内にその名品が届いたことは、言うまでもないことだろう。
【如水の野望を公開】
今ここで、古美術の世界に長年に渡って横たわっていた、謎のベールの一つが剝がされることになる。
それは、黒田如水の茶陶に関する新事実と、古唐津と呼ばれる焼き物についての衝撃的な新事実である。
百聞は一見に如かず。
まずは、実際に伝世品を実見いただこう。
作品の解説をする前に、慶長8(1603)年正月の茶会(前述)で「黒今ヤキ」が初めて使われた記録に改めて注目してみよう。重臣の母里太兵衛の食事会が開催された折に、如水・宗湛の前で披露された茶碗である。
この黒今ヤキは、一般的には、「黒楽茶碗(聚楽焼)」のことだと考えられている。
しかし、聚楽焼と思える茶碗は、慶長6(1601)年の長政主催の茶会で、すでに「黒茶碗」として茶会記に出ているのだ。
そのため、1603年に改めて冠された「今ヤキ」の表記を、黒楽茶碗と同じだと想定すると、矛盾が出てきてしまうように思えるのである。
もちろん、都で流行していた他産地の黒茶碗を指して使った場合や、新しく作られた聚楽焼と考えることもできるが、当時の時代背景や、如水や長政の茶の湯関連の動き、そしてそれらの結実である永満寺宅間窯産の伝世品花入という存在を総合的に鑑みれば、やはり、この食事会の場で使われた「黒今ヤキ」は、永満寺宅間窯で焼かれた茶碗の可能性が高いと判断できるのだ。
即ち、これまで重ねてきた茶会を通じて、神谷宗湛のネットワークを頼りに、古田織部や寺沢広高など、茶の湯の流行や流通に明るい大名茶人らの助言や支援を経て最新の茶陶を開発し、その成果が披露されたのではないかと考えられるのである。
どちらにしても、その直後の慶長十(1605)年頃から、茶会記に各地の窯場で焼かれた黒茶碗の表記が激増していく事実を踏まえれば、その数年前には窯場が整備され、初期作や試作を各大名たちが競うように作っていたと考えるのが、事実に則した自然な解釈であろう。
では次は、永満寺宅間窯で焼かれた作品に見られる青海鼠という景色の伝承について、伝世品の花入を通じて検証してみたいと思う。
黒褐色の胎土の上に掛かった藁灰釉の隙間で輝く、青やエメラルドグリーンのやけ肌。
ご覧いただくと一目瞭然、まさに伝承通りの「青海鼠」風の土肌が確認できる。
このような景色は、斑唐津の表面に現れる青景色と共通の反応と見受けられよう。
ひと昔の昭和期までは、永満寺宅間窯の次の窯・内ヶ磯窯で作られた水指が「斑唐津」の水指として高値で取引され、それらの一部は、現在も美術館のガラスケースの中に収まっている。その原因は、この共通のやけ肌から同じ産地と判断したのであろう。
そうなのだ、すでに述べてきたことだが、古高取焼はこれまで、古唐津として市場に流通していたのだ。
なぜこのような誤解が起きたのだろうか?
その答えとなるヒントが、副島邦弘氏の研究著書「やきものと渡り陶工」に記されているので、その一部分を以下に引用させていただこう。
『 文禄二(一五九三)年に波多氏は朝鮮の戦場での振舞いによって、秀吉から改易を受け、関東の佐竹氏にお預けとなった。これによって保護を失った陶工たちは離散していった。これに慶長の役で連れてこられた朝鮮陶工との出会いがあった。肥前で藁灰釉の碗・皿が見られる窯は、相知町の道納屋窯、伊万里市の大川原一号窯、長崎県波佐見町の下稗木場窯で、ほかは急速に消えてしまう。逆にその頃から藁灰釉を盛んに用いる窯業地として、福岡県の上野・高取焼があり、岸岳系の陶器窯から離散した陶工の渡りの一つと考えてもよいと思われる。名もない陶工は窯場を渡って技術を伝えていくことが藁灰釉の伝播でも理解できる。(P151) 』
これを読めば、古高取焼が古唐津に混じってしまった理由がはっきりと理解できる。
それは、初期の筑前高取焼が、朝鮮からの渡り陶工八山の技術だけでなく、岸岳系の古唐津焼を焼いていた陶工の技術とが交じり合って出来上がっていたからなのである。
とうことは、古高取焼は、むしろ岸岳系古唐津の伝統を正統に受け継いで焼かれた茶陶とも言えることになる。
もちろん唐津周辺や鍋島藩周辺でも、それぞれの利害関係者たちが茶陶を完成させるべく様々な「唐津焼」を焼いていたと想定できるが、少なくとも筑前高取焼もその一種であり、その中でも将来有望と目されていた茶陶の一つが、永満寺宅間窯産であることは、もはや疑う余地のない事実であろう。
そんなことを想像しながら、永満寺宅間窯の伝世花入をぼんやりと眺めていた。
すると、どうしても、「ある焼き物の名前」が脳裏をよぎって離れないのである・・・。
【朝鮮唐津の真実】
その焼き物の名前は、巷では「朝鮮唐津」と呼ばれている焼き物である。
朝鮮唐津とは、唐津焼の中でも黒色の釉薬と白色の釉薬を掛け分けた作品のことをいう。黒色を出すための黒釉薬は鉄分の多い鉄釉が使われ、白色を出すための白釉薬は藁灰釉が使われるのが典型である。
その異なる釉薬を半々に掛け分けることで、景色が一変する「片身代わり」という意匠性に仕上げられていることが多い。今回の伝世品も片身代わりの景色に焼かれているのが分かる。
朝鮮唐津という名前の由来は定かではないが、一説によれば、朝鮮半島で胎土を作り施釉と焼成を唐津で行ったからというものや、朝鮮から渡来した陶工による朝鮮の技術を取り入れて焼いたからという伝承が残されている。
それらを実現性や史実から鑑みれば、後者の由来が現実的だろう。
ちなみに現在、朝鮮唐津と呼ばれる作品の伝世品は、主に唐津焼で焼かれたものがほとんどである。
しかし、ここで当館が提唱したい重要な真実とは、この「朝鮮唐津」と呼ばれる焼き物を焼かせた人物こそ、ずばり「如水」であり、最初の朝鮮唐津焼は永満寺宅間窯から作られたのではないのか?ということである。
なぜなら、現在伝世している唐津焼の朝鮮唐津が、様式としては江戸時代の元和寛永期頃に作られた作風と想定できるからだ。
つまり、どう考えても、古高取焼として残っている朝鮮唐津の茶陶の方が「古い」のである。そして、その古高取焼の中でも、最も古いと考えられる朝鮮唐津の茶陶が、今回発見された花入なのである。
それらを踏まえて、改めて如水が手掛けた朝鮮唐津の花入を振り返ってみよう。
関ヶ原合戦が終わり、筑前国に入った如水は、朝鮮半島から連れ帰った朝鮮陶工らの技術を活かして、当時流行していた唐津焼のような焼き物を、自分の領土でも焼きたいと考えていた。
そこで活用したのが、博多の豪商神谷宗湛のネットワークである。
即ち、唐津焼の流通や生産を担っていた数寄大名寺沢広高や、都で茶の湯のブームをけん引していたカリスマ大名茶人古田織部を介し、それらの知見を利用して、永満寺宅間窯で茶陶の開発にこぎ着けたのだろう。
そしてその成果こそが、それらの全てを結集して完成させた「朝鮮唐津」の意匠性なのである。
つまり、①:鉄釉薬の下地の上から藁灰釉を掛け分ける意匠性は、岸岳系唐津焼の陶工からの技術を取り入れ、②:右回転の荒いろくろ目筋模様と輪花の口作りの成形技術は、織部や京やきもの陶工らの意匠性(瀬戸)を取り入れ、最期に、③:連れ帰った朝鮮陶工が築いた永満寺宅間窯で、それらを組み合わせて、大胆に器を横向きに寝かせて焼くことで、横掛けの片身代わりの景色を見事に完成させたのだ。
これこそ黒田如水が目指した景色であり、当時の最先端技術を総結集して焼き上げた渾身の茶陶だったのだろう。
そしてこれが、朝鮮唐津と呼ばれる焼き物の真実なのである。
では、なぜそのような事実が、現在まで歴史の片隅に埋もれてしまっていたのだろうか?
最期にその点について考察し、この特別展を締めくくりたい。
結論から申し上げると、筑前高取焼が史上の謎となってしまったその理由は、早すぎる如水の死と、織部の突然の切腹が原因であろうと思われる。
これまで見てきたように高取焼のルーツは、如水が茶会で声掛けをした面子によって作り出されたことが有力だと分かってきた。
そのため、その中心的な役割を担っていた如水が慶長9(1604)年に亡くなってしまったことで、第一弾の永満寺宅間窯の茶陶生産プロジェクトは、そこで一時中断となってしまったのであろう。
その後、約十年の時間を経て、今度は黒田長政が古田織部や京三条やきもの陶工らと共に、内ヶ磯窯での茶陶生産に乗り出すも、開窯から約1年後の元和元(1616)年に、今度は織部が切腹によってこの世を突然去ってしまう。
そのために、またもやプロジェクトが滞ってしまい、その由来や伝世品が謎のまま、唐津焼の一種として葬り去られてしまったのだ。
これが筑前高取焼の謎の真相であろう。
如水は、慶長時代の茶の湯ブームに、黒田好みの黒今ヤキ「朝鮮唐津」を送り出すことで、流行の火付け役を担おうとしたのである。
そのために、豊臣時代の覇権者たち、戦国時代に活躍した当時の実力者を集めて、茶の湯で再興に挑んだのだ。
それが、生々しいまでの野心を秘めた武将茶人黒田如水の真の姿である。
そして、そんな如水の野望を体現した、まさに人生を賭けた逸品こそが、たった一つだけ今世まで残り、今ここで定説をひっくり返した朝鮮唐津花入だったのである。
本編 完